本コラムでは、当社コンサルタントの武田が、「キャリアエッセイ2~自分のミッションを求めて~」と題し、キャリアを考える上でのヒントをご紹介させていただきます。今回は、「『努力』はすべての報いを与えてくれるのか」をテーマにお伝えします。
「努力」はすべての報いを与えてくれるのか

為末大さんの著書「諦める力」を読ませていただきました
ご存知の通り、為末さんは日本屈指のスプリンターで、短距離及び陸上ハードルでのメダリストでもあります。
ただ、これら輝かしい成績の一方で多くの苦悩と挫折も体験し、現在ではスポーツ界のみならず、多くの方々に生き方やキャリアの視点からエールを送ってくださっています。
同書の中で、日本の風習に一石を投じておられます。
特にスポーツ界などで、「人より努力をしたから良い成果が得られる」、「日本一練習したから日本一になれる」的な努力信奉主義が強く、また途中であきらめることを潔しとしない風習は、果たしていかがなものかと。
これは「努力すること」を否定した考えではありません。
ただ、「日本一になる」とか「金メダルをとる」という人たちは本当に一握りの人間であって、残りの圧倒的に多くの人たちには、
人並み以上に努力をしたとしても届かない現実であることをまずは理解しなければならない、ということです。
それと同時に、人間には与えられた「才能」というものがあり、プロ野球選手でも誰でもがイチロー選手になれるわけではないように、「才能」を努力で超えようとしても限界があることを知る必要もあります。
そして、才能を持っている人間と持っていない人間とでは、同じ努力でも、その行為に対する自分自身の投映の質が全く異なることも考えておく必要があります。つまり、才能のある人は、同じ練習をしても、精神的・肉体的苦しさの質が異なるということです。
私は体育会的思考の強い人間ですから、「努力は不可能を可能にする」という思いを常に持って仕事もしてきました。辛いことがあっても、それは自分の努力が足りないためであって、「投げ出すことは卑怯なことだ」と常に自分を律してきました。
努力なしに人間は成長しませんから、自分に負けてはいけないと自分に負荷を課すことは大切なことですし、この努力の報いは、それなりに与えられたものと思っています。
しかしながら、才能の無い、あるいは一定期間(私の場合は10年)努力しても成果に繋がらないような分野へ継続努力し続けても、本当に今後成果がでるのかどうか・・・
自分自身のメンタルも含めて考え直すことは、決して自分に負けることではない、と考えるようになりました。
アスリートの世界でも、風習や周囲の期待、また自身の生き方の美学に囚われ、辞め時を逸してしまい、生活に困窮する選手が相当数いるとのことです。
スポーツ一辺倒で他のことに無頓着であった人間が、年齢が高くなってから転向して生きていこうとしても、中々難しいのも現実です。姿勢は美しいし私もそういうストイックな生き方は大好きですけど、現実的に自制しながら生きていくことも大切です。
自分に甘えることなく、でも自分の才能や心の利き手に背いて美学を貫くことの危険さを、
現在私は自分自身にも真剣に問うています。
後悔しないように選択したいです。