本コラムでは、当社コンサルタントの武田が、「キャリアエッセイ2~自分のミッションを求めて~」と題し、キャリアを考える上でのヒントをご紹介させていただきます。今回は、「心の基準」をテーマにお伝えします。
心の基準

加藤諦三さんの本を読んでいて、「自我欠損」という言葉に出会いました。
この自我欠損とは、「超自我」と「イド」とのバランスを取る役目を果たす「自我」がないということです。
この問題を考えるときには、フロイトの構造論の理解が必要ですね。
構造論とは、フロイト,S.により提唱されたパーソナリティ理論である心的装置論の1つです。
イド、自我、超自我という3つの構造と、その相互作用により、心的装置を説明します。
イドとは、無意識的なものであり、快楽原則に基づいてリビドーを解放し、衝動・欲求を充足することで快を得るメカニズムです。
自我とは、意識的なもので、現実原則に基づいて、イドによる衝動・欲求の充足を現実に合わせ調整したり、イドと超自我の葛藤を現実に合わせ調停したりするメカニズムです。
超自我とは、無意識でも前意識でもあるもので、道徳原則に基づいています。
イドによるリビドー解放を道徳的価値に基づき、禁止・抑圧するメカニズムです。
フロイトによれば、これら3つの構造のバランスが崩れると、不適応や精神疾患が引き起こされると言われています。
(以上、太字部分を心理学用語集サイコタム引用)
つまり、自我欠損とは、欲望重視の「イド」と、あるべき主義の「超自我」の調整を自らができないために、極端に本能に走ってしまったり、またあるべき姿に縛られてしまっている状態をいいます。
神経症的な病気に陥るときには、この自我欠損の状態にあることが少なくありません。
自分自身の能力や個性はもちろんのこと、自分が「誰を」「何を」好きで嫌いなのかが、環境に流され分からなくなってしまい、自我を意識的に押さえつける(=抑圧)ことによって、無意識の世界に隔離してしまい現実的な制御が利かなくなってしまうのです。
このような場合、人間は意識的に対応できたと信じていても、無意識の世界では何ら状況は変わっておらず、意識と無意識との間での不一致が、なおさら本人の心の状態を混乱させてしまいます。
自我の世界、つまり「心の基準があるから、現実的な取捨選択の基準ができる。さらに心の基準があると、今自分は自分にとってどの程度重要なことをしているかが分かる。うつ病になるような人は、疲れても休めない。それは心の基準がないからである」と加藤さんは言われています。
心の基準がないと、これはできなくて評価が落ちても仕方ない、これは多少無理してもしなくてはならないという選択ができない。
そうなれば疲れて倒れるか、一切を投げ出して怠惰になってしまうかになるだろう・・・
この加藤さんの言葉は、とても印象に残りました。
あるべきリーダー、あるべき姿を意識しすぎて、またその姿に対する他者の評価を意識しすぎて、自分を過度に苦しめている自身の姿を感じることもできました。
働くことについて自分自身の能力や経験だけでなく、思いや動機の点からも本当に自分が活かせる機会を考えて歩みたいと思います。