前回のコラムでは4つの視点の一つである「1.個人視点×形からのアプローチ」から「社外人脈の形成」についてご紹介しました。今回は、引き続き「1.個人視点×形からのアプローチ」に焦点を当て、「教養を磨くこと」と「エンプロイアビリティ」について考えていきたいと思います。
教養を磨くこと
日本では、「社会人大学院」という言葉があります。言葉の通り、社会人のための大学院であるわけですが、欧米では「社会人大学院」に該当する言葉は無いそうです。それは、大学院に学ぶ学生は、若い人から老人まで、また社会人経験をしているか否か、そういう区分けをする概念がそもそもないとのことです。
OECDのデータによると、25歳以上の国民の教育機関への入学者の割合は、北欧は50%を超えており、米国も30%を超える比率を示している一方、日本は4.6%と極めて低い数値となっています。
日本の場合、大学を出たらその後は仕事に専念するのが通常で、理論、哲学、歴史などのアカデミーな知識は、現実のビジネスには役に立たないと解される文化であるゆえかとも思います。でも、この数字が著す意味を、私たちは真剣に再考しなければいけないのだろうと思います。
数年前のことですが、日本の実業界は大学に対し、企業人として即戦力になる学生を養成してほしいとの要望を出しました。新卒者に対し、一からすべて企業が育てるような時間は無い、というのが理由だったようです。それを受けて大学側は、幅広い教養課程を学ぶ時間を削り、入学当初から専門課程に力を入れるような育成方針の変更を行いました。
その結果がどうだったでしょうか。評価は色々あるかと思いますが、私が企業の人事部門にいて感じるのは、自分ではなく周囲の人間の存在や感情に鈍感である若者が増加したように思えることです。もちろんすべての若者がこの範疇に入るわけではありませんが、自己愛が強い人間が多くなってきたことは肌感で感じます。
これに関し、すべての因果を私が仮説で語れるとも思っていません。けれども、教養を軽視すると、人間的な偏りが生じてしまうのではないかと思うのです。教養はリベラルアーツと言われますが、囚われや偏見に満ちた自分の枠をリベレート(=解放)するのが教養です。専門課程をサイエンスでひたすら学ぶことは尊いのですけど、その最終目的は何なのか。目的が専門分野の知識の習得であるなら、専門課程重視の育成を早期から採りいれれば良いでしょうが、目的とすべきは本当に知識習得なのでしょうか。
私は、その知識習得は手段であり、最終的には自分や周囲の人びとの幸福を求めることこそ学びの目的なのではないかと思っています。すなわち、私がキャリアの定義で提示させていただいたように、「自分自身に与えられたタレント(能力・個性)を、いかに自分と他者の幸せと成長に活かしていくか」という視点無くしては、専門課程の知識を活かしていくことは本来できないのではないか、と考えています。
欧米の大学では、殆どの時間はリベラルアーツを学び、さらに専門課程を深めたい人間はその後大学院に進むというのが常道のようです。それだけ社会の中でリーダーとなっていく人には、人間力や広い視野などの期待が大きいということなのでしょう。
五角形分析(前回コラム記載の「重要な人の五角形」ワーク)でも分かるように、広く浅い、そして異分野の人びとと直接間接に、また書籍や論文などを通じて様々な人の生き方と出会い、自分自身の立ち位置を謙虚に考え直すこと、これこそが教養を磨く、ということなのだろうと思います。
「教養を磨く」の項で、もう一つだけ触れておきたいことがあります。私たちは5感と呼ばれる感覚を持っています。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚ですが、人間はその5感の中では視覚が発達しているといわれています。
私たちの現代社会は、サイエンス(=科学)に基づき、ファクト(=事実)を重視してそのベースの上で妥当と思われる判断をしながら生活しています。ですから、目に見えないものを信じることは、基本的には難しいですね。
心理学は心の世界を扱っていますが、目に見えない心を捉えるための工夫として、歴史上、「行動主義」という「目に見える人間の言動からその人の心を推定すること」が是とされた時代もあったわけです。
でも、私たちが生きている社会の中で、本当に眼に見えるものだけが尊く確実なもので、逆に目に見えない世界は軟弱で不確実な虚像なのでしょうか。
私は学生時代バスケットボール部に所属していたのですが、中学時代のバスケットボール部の2学年先輩は、都大会でも上位に出場するような強いチームでした。もちろんその先輩たちは、学校を卒業し社会に出ても仲の良い同期同士だったのですが、あるときその先輩の一人で教師になったOさんが、教え子に刺されて命を落としてしまうという悲しい事件が起こりました。そのO先輩は、レギュラー選手ではなかったものの、ガッツプレイでは絶対に負けない努力と根性の、そして本当に後輩にも優しい先輩でしたので、その訃報は私にも受け止められない悲しみでした。
その同期生の先輩たちは、披露宴とか何かの集まりがある時には、必ず「Oさんの席」を作り、天国にいるOさんの存在を意識して集いを持っているとのことです。
皆さんは、この話をどのように捉えてくださったでしょうか。目にみえるファクトや科学的根拠のあるものが優位で信じるべきもの、そして空席となっている「Oさんの席」は、サイエンスに劣後しているのでしょうか?
また、もう一つだけ紹介させてください。
4人兄弟で生活も貧しい家族の話ですが、私の知り合いはその4人兄弟の一番上の姉だったそうです。クリスマスの時期に、サンタさんからのプレゼントが期待できないと分かっていた彼女は、サンタさんからのプレゼントを心待ちにしている妹や弟を見ていて、自分が何とかできないかを考えます。でも、持っているお小遣いはほんの少ししかなく悩みます。結局彼女は、自分の分を買わずに、妹と弟3人のために、ホンのわずかですけどプレゼントになるものを購入し、寝静まった夜にそっと各々の靴下にそのプレゼントを入れておいたそうです。
翌朝プレゼントに気付いた妹や弟は、品物の価値ではなく、プレゼントをもらったことに対する喜びを満面に表していたとのこと、でもその笑顔を見て一番の贈り物をもらったのは、姉の自分自身だったと、私の知人は話していました。眼に見えない世界にこそ、大切な真実もあるのだと、その時私は教えてもらったのです。
学生時代のみならず、社会人になってからも、そして現役を引退して市民としての役割を果たす段になっても、目に見えるものだけに価値を置いて判断するのではなく、目に目ない世界にも思いを馳せる、ということに対し、今一度考えたいと思います。キャリアにおいても、外的キャリアに偏りすぎてしまうことの貧弱さを述べたように、また、心の世界でも玉置僧侶がスピリチュアルな世界無しに人間は健康足りえないと言ってくださったように、他者の思いへの深い理解をしていきたいものです。
エンプロイアビリティ
エンプロイアビリティ(Employability)とは文字通り、Employ(雇用する)とAbility(能力)の合成用語で、一般的には個人の「雇用され得る能力」のことを指します。当然にこの能力が高い方が、就職率も良いばかりか、条件のよい就業機会を得ることができます。
日本は、終身雇用の慣行が払拭されているわけではありません。企業の人事制度を見ても、長期就業者にアドバンテージが残るよう設計されている会社も沢山あるでしょう。しかしながら、現在はそういう長期雇用慣行の元にある者を含め、予期せぬ(あるいは自ら望んだ)労働移動に備え、外部労働市場でも通用し、他企業に雇用されることを可能とする職業能力(エンプロイアビリティー)を磨くことが必要となってきています。それは、会社自体も、この変化の激しい時代に合って、正解を提示し、全社員のキャリアを正しく伸長させることなど無理に等しいからです。
会社は、社員の能力向上のための機会提供をできるだけ行い、社員は会社の作る機会だけでなく、自らも機会を作り自ら成長意欲をもってチャレンジする。そして会社と社員の相思相愛(=エンゲージメント)関係は、結婚という一体化してしまう関係ではなく、どこかワクワクしながらでも一方ではリセットもありうるという「婚約の関係」こそが望ましいのだと思います。互いのことを縛りあうのではなく、いつも一定の関心を持ちながら、ときには楽しいデートを行い、時には自分のことに没頭する環境を持てるような、そういうエンゲージメントこそが、エンプロイアビリティを伸ばすことに通じるとともに、その時に一番に愛する相手に対し、自分の能力や個性を発揮することにより幸せになれるのだと思います。
■執筆者プロフィール
武田 宏
日清製粉グループオリエンタル酵母工業にて海外貿易業務に従事。その後同社にて人事制度改革プロジェクトに参加し、「人」という経営資源のあるべき姿について学ぶ。2001年株式会社ニッペコに入社。海外企業(独)との資本・業務提携のプロジェクト遂行、人事・経理・情報システム等の管理部門責任者を経て、現在は人材育成・社員相談業務を主とするキャリア支援室室長を務める。合わせて社長付として経営補佐の任も担う。
支援人事、キャリア開発支援に携わり15年が経過。現職の傍ら、現在放送大学大学院にて臨床心理課程で「心」を学び、組織視点だけでなく個人視点での成長にコミットできるよう研鑽を重ねている。
2020年よりタラントディスカバリーラボ代表、㈱セイルコンサルタントとして、キャリア開発支援活動を開始。